散歩」の続きです。
目的地を決めずに歩いています。
正面に小高い丘のような山が見えていますが
そこは既にフランスです。
言い換えれば写真を撮っている場所はドイツの端っこです。
もう少し歩けばフランスまで行けそうです。
実際これまで何度か自転車でそこまで行きました。

上の写真を撮った場所の直ぐ近くに石畳の箇所があります。
何故こんな国境近くに手間のかかる石畳の場所があるのか、
私は理由を知りませんが、おそらく現在は国境地域となっている当たり、
昔はドイツでありフランスでもあった場所ですが、
そこからザールブリュッケンに向かう道の一つだったと思います。
ここは道が交差している箇所ですが、それだけ交通の要所だったのかもしれません。

その交通の要所的な場所の隅にコンクリートの壁のようなものが見えます。
上の写真でも次の写真でも見られますが
これは第二次世界大戦前にドイツ軍によって作られた
対フランスの防御施設です。
国境周辺には幾つか見られますが、中に入ることは出来ません。
場所によってはその施設そのものが有刺鉄線で囲まれています。

その直ぐ側には小さな泉があります。
今は冬季だから水が出ていないのかどうかは分かりませんが
この直ぐ側にある碑によると1635年には既に存在していたとあります。
(現在の泉そのものは1834年に作られたと言うこと)
その時期はちょうど三十年戦争の時期です。
ザールブリュッケンの街も被害を受けました。
ここの水は住民や兵士にとって
欠かせないものだったのかもしれません。

少し歩くと様々な花が目を楽しませてくれます。


Wikiによると
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4月2日は彫刻家・詩人の高村光太郎(1883年 – 1956年)の命日で、
これを連翹忌とも呼ぶ。これは、高村が生前好んだ花がレンギョウであり、
彼の告別式で棺の上にその一枝が置かれていたことに由来する。
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ということだそうです。

ここの桜は既に満開を過ぎたようです。
場所によって開花の時期に差があるのかしれません。

少し行くとまた防御施設があります。

先ほどの石畳の道と数百メートル離れた場所にある別の石畳の道です。
上のものと同じような幅です。
こちらも重要な道だったのかもしれません。

そして同じように近くにはドイツ軍の防御施設跡があります。

この辺りは歴史を伝える場所かもしれません。
ただ国境という場所柄、直ぐにフランス軍が攻めてくるという可能性もあり
時代によっては落ち着いて生活も出来なかったのではないかと思います。
今でこそ平和な時代となり、「フランスが近い」と言えますが
昔はもっと遠くにあって欲しいと思っていたかもしれません。
同じ場所でも色々な角度から見ることによって
また違った印象を得ることもあります。